イチロー

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の開催の経緯は、MLBの世界へ向けた事業戦略の一環だったとされている。背景には1990年代後半から進んだ、MLBに所属する選手の多国籍化があった。日本や韓国などをはじめとする東アジア出身選手や北中米出身選手が増加したのだ。選手の多国籍化を受け、2000年に入ってからMLBは精力的に世界へ進出を始める。その足がかりが日本をはじめとする米国以外での開幕戦など、積極的に国外へ進出。こうしたMLBの国際化をきっかけに、MLB機構のバド・セリグコミッショナー(当時)が「野球の世界一決定戦」の開催を提唱したとされている。

 第1回大会は2006年ではなく、元々2005年3月に国際大会スーパーワールドカップ(仮称)として開催される予定だった。しかし、日本野球機構と韓国野球委員会から「MLBが主催ではなく、大会用に運営組織を作るべきでは」といった異議が出たため、MLBはWBCIを組織し、1年遅れで開催まで辿り着いた。

 また、ルールの面で投手に関しては球数制限が設けられた。開催前を見ると、シーズン前ということもあり、今よりも参加に消極的な球団や選手は多かった。日本は松井 秀喜外野手(ヤンキース)や、井口 資仁内野手(ホワイトソックス)が辞退を表明。その中でイチロー(マリナーズ)は「世界の王選手を世界の王監督にしたかった。」とコメントして参加を表明。その後、松坂 大輔投手(レッドソックス)や上原 浩治投手(巨人)、松中 信彦内野手(ソフトバンク)などのスター選手が参加を表明して初のメジャー組と融合した日本代表が集結した。イチローは代表合宿から率先して声を出すなど、普段の孤高な天才から頼れるチームリーダーになっていたのは一目瞭然だった。初めての野球の世界大会が始まることになった。

 五輪とは異なり、大会前のキャンプ期間で事前準備期間があったため、メジャーリーガーが参戦してレベルが高いとはいえ、結果が出やすかったのはあるだろう。大会が始まれば、打線は打率.311、10本塁打、57打点を記録。13盗塁はもちろんのことだが、打撃3部門が出場国1位を記録。長打率.478も3位を記録しており、世界を相手にしても打撃の良さがわかる大会で、要所では西岡 剛内野手(ロッテ)や川崎 宗則内野手(ソフトバンク)などを中心に、小技を織り交ぜる攻撃の質の高さを見せつけた。

 しかし、韓国にはまさかの2連敗を喫する。この韓国の敗戦に関しては、韓国投手陣の変則投手や細かい継投策に苦しんだ。奇跡的に勝ち上がった日本は、準決勝の進出を決める。そこで国際大会無敗の上原が、韓国打線に対して好投を見せた。さらに打線も福留 孝介外野手(中日)が意地の1発を見せて、テレビの実況での「生き返れ福留!」の名台詞が生まれた。決勝戦はアテネ五輪でキューバ打線を抑えた松坂が好投を見せるなどで、初代覇者に輝いた。

 大会全体を見ると、スター軍団の米国は2次ラウンド敗退。その他ベネズエラ、プエルトリコなどが敗れた中でドミニカ共和国は、ソリアーノが不調ながらも、オルティーズやプホルス、コロンなどのメジャーで実績がある選手を揃えてベスト4になった。

 日本は、戦いながらチーム全体が国際大会の勝ち筋を身につけ始め、日本らしい野球も生かしながら勝ち進むことができた。また、イチローの存在感が大きな影響を与えたのもある。普段は冷静なイチローが韓国戦への闘志を剥き出にした姿勢を見た選手は、士気を高めただろう。初のメジャー組との融合が見れた国際大会は、初代王者として世界の頂点に立ったことにより、日本の野球のレベルの高さを認知させられたのではないだろうか。

(記事=ゴジキ)