2021年夏、帝京の前田三夫監督が50年に及ぶ監督生活に幕を下ろした。全国制覇3回、甲子園通算51勝。高校野球に半世紀を捧げた男はいかにして帝京を全国屈指の強豪に鍛え上げ、「名将」となったのか。

 前田監督の監督生活を振り返った特別連載企画の3回目は最終章に突入する。「一番感慨深い」という仙台育英との決勝秘話から、高校野球史に残る伝説の総力戦となった2006年夏の智辯和歌山戦などを振り返ってもらった。

名監督列伝・前田三夫(帝京)
■第1回
「知られざる監督就任エピソード」
■第2回
「夏の全国制覇を勝ち取るまでの修行期間と大胆改革」
■第3回
「自主性とのジレンマ、胸が踊った2006年夏」

仙台育英・大越と紙一重の勝負


 1989年、第71回全国高校野球選手権の決勝は0対0のまま10回、帝京の攻撃を迎えていた。ヒット、四球、バントでつかんだ1死二、三塁で打席には鹿野浩司(元ロッテ、現江戸川ポニー監督。ここまで仙台育英・大越基の速い球に詰まらされていると感じた前田三夫監督は、タイムをかけて「狙いは変化球だ」と指示を出した。だが、ズバズバと直球が2球決まり2ストライク。前田さんはいう。

「2球見送った鹿野が、恨めしそうにこっちを見てね(笑)。手を上げて"悪い悪い、変化球狙いは取り消しだ"と意思を伝えると、3球目もまっすぐ。だけど、これをファウルしてくれた。追い込まれても、一度バットに当てると打者はその気になるでしょう。そして4球目、外目の甘いまっすぐをセンター前に会心の当たりです。これで2点勝ち越して、優勝できました。ただ後年、雑誌の企画で大越君と対談したんですが、彼は投球中に私をよく見ていて、"打て""待て"のサインがわかっていたというんですね。最後、鹿野の打席のときも見られていたら、変化球狙いを取り消したのがばれたかな(笑)。

 また大越君がいうには、すでに疲労は限界近く、9回裏の2死から三塁打が出たときにサヨナラ勝ちを期待したそうです。それが0に終わり、気持ちを切り換えられないまま10回のマウンドに立った。だから、直球にまったく合っていない先頭の井村(清治)に対して、なぜか変化球から入ってしまうんですね。それを叩いた打球がセンター前に抜けていき、ウチのチャンスになるわけですが、9回裏の仙台育英がすんなり3人で終わっていれば、大越君の気持ちもまた違っていたかもしれません」

 ぎりぎりの勝負にはときとして、そういう勝負のアヤがある。この代の帝京は、エース・吉岡雄二らが入学してきたときから「全国優勝を狙うよ」といい続けるだけの力があった。だがセンバツでは、報徳学園(兵庫)に初戦負け。捲土重来を期した夏の東東京大会前には、吉岡がねんざして投球不能という緊急事態だった。代役の池葉一弘が奮投したが、岩倉との決勝では一時、4点差をつけられる大ピンチ。ここをなんとか逆転しての出場だった。甲子園本番では、2回戦から登場の組み合わせ。吉岡のねんざの回復には貴重な時間をもらえたのも、微妙なアヤだ。

「あれで吉岡の目の色が変わりましたね。なにしろ、自分が投げられないのに連れてきてもらったんだから、今度は"オレがやらなきゃ!"という気になる。ねんざの後遺症はあったと思いますが、下半身が弱っているのを取り戻そうと、毎朝6時から私が付き合い、宿舎のそばの武庫川べりを走りました。一度本気かどうか試そうと狸寝入りをしていたら、"監督さん、時間ですよ"と揺り起こされた。ああ、コイツはやってくれそうだと確信を持ちましたね。結局吉岡はこの大会、5試合で1点しか取られていないんです」

 以後も、毎年のように甲子園に出場した。91年夏には、またも池田(徳島)と3回戦で対戦。すでに蔦文也監督はベンチからは退いていたが、3点を追う8回裏、三沢興一(元巨人など)の満塁ホームランで逆転。9回に追いつかれるも、10回裏の2点ホームランでサヨナラ勝ちしている。翌92年春は、初のセンバツ制覇を果たす。エース・三沢は前年秋、公式戦の防御率が32校中ブービーと、前評判はさほど高くなかったが、甲子園では5試合すべて完投で防御率1・00と、見違えるような安定感だった。